8/31「 明け渡す」ひと
🥢夕ごはん
和風ヒレステーキ
サラダ
アスパラの冷たいスープ
いちじくの甘露煮
そして、いつものほろよい
🥤今朝のスムージー
特別ゲスト(?)はパイナップル
小松菜
バナナ
キウイ
レモン
ヨーグルト
蜂蜜
ムスコ、小松菜はムリに入れる必要なし、とのこと😓
🍱今朝のお弁当
昨日焼いたべーコンと黒胡椒のパン
サラダ
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👘今日のきもの
今年最後の薄物
絽の小紋
絽の名古屋帯
きものの暦では明日からは単衣となる。
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3日前、otanさんの「村山マリア」という記事を読んで、ずっと考えていたことがある。
殉教、について
子供の頃「クォ・バディス」という本を読んで以来、「殉教」という言葉がふとした瞬間に頭をよぎる、そんな人生を送ってきた。
33才でクリスチャンになったが、その前も、もちろん後も。
「クォ・バディス」では、皇帝ネロの時代のコロッセオで野獣に食い殺され、otanさんのブログで紹介されているのは、キリシタン禁制下の日本での火あぶりや、斬首。共に殉教、実際にあった話。
唐突に思った。
クリスチャンを一言で言うなら、「明け渡す人」なのではないかしらん。
もちろん私の勝手な解釈だけれど。
人間は自分の考えで生きている。
こうしなくちゃ、とか、ああしたい、とか。
それはクリスチャンであるなしに関わらず、みんなそうだと思う。
で、クリスチャン、つまり神さまを信じている人々は、いざという時に、大胆に行動するのではないのかな...そう、例えば厳しい弾圧、そして殉教への道。
普段田畑を耕して暮らしているおとなしい農民が、緊急事態に陥ると、すわっとばかりに、鍬や鋤を振り上げて戦う、そんなイメージ。
これじゃ、まるで百姓一揆だけど😓
自分の意思とか考えでなくて、神さまに自分をテイクオーバーされるというか、
やっぱり「明け渡す」感じ。
聖書や祈りを通して、いつでも明け渡す準備ができている、そんな感じ。
私みたいに、信仰からほど遠い毎日を送っている者でも、神さまが呼んでくださり、何かのご用に使ってくださるなら、
「みこころのままになさってください」
と言える、と思う。
そうでありたい、と望んでいる。
そう言える強さを与えてくださいと祈ってる。
otanさんのコメント欄で、遠藤周作の「沈黙」は本当は別なタイトルだったと初めて知ったのだけど、
神さまが、ただ沈黙されているのでなく、その中で働いておられること、
また殉教者だけでなく、転んだ者も、慈しんでいてくださること、
それを信じてる能天気クリスチャンの私は、
赦されることも、清められることも、平安を与えられることも...全てが沈黙のうちに行われる、と思うので、
「沈黙」というタイトルは出版社がつけたタイトルにしては上出来ではないかなぁ、と思った次第です🙆
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