ごはんとお弁当、そして信仰のこと③
夕ごはん
麩のピカタ、野菜のインビジブル、きゅうりとカニかまの和え物、冷奴、フルーツ。
そして、初物の枝豆とビール🍺
白い缶のヱビスなんて初めて見た。
今朝のお弁当
おにぎり3種...甘辛ツナ、梅干しと青じそ、昆布。味噌汁。
・
・
私の信仰履歴③
本当のこと言うと何日も間があいたら、恥ずかしくて、どうでもよくなったけど😓
まあ、始めてしまったので、ちゃんと終ろう。
ええと、
「天路歴程」の主人公のように、十字架の前で重荷を下ろした。つまり洗礼を受けてクリスチャンとなり、子育ての悩みは解決した。
3日前にここまで書いた。
で、熱心に聖書を読んで、教会に通って。10年位は神様と自分だけの蜜月期(?)だったように思う。
他の人のことなど目に入らなかったから。
けれど次第に日曜日の礼拝後、教会員同士のお茶の時間が苦痛になり始めた。
「礼拝で心洗われたばかりなのに、もう人の噂話? 人の悪口?」
「え?クリスチャンなのに教会に来ないで遊び優先?」
「え?お金がそんなに大切?」
...たくさんの???が頭の中で渦巻き、他のクリスチャンの【いい加減さ】が許せなくなってしまった。心の中で裁いていた。
神様は信じるけれど、教会は嫌い、他のクリスチャンとの交わりはいらない、そんな10年間を過ごした。
なんと傲慢だったことか!
しばらく教会に行かない時期もあった。聖書も読まなくなった。
でも、後ろめたさみたいなものはいつもあって、時々自分に都合のよい聖書の箇所が頭に浮かんだ。
「人は行いによるのでなく、ただ信じる信仰によって救われる」
「すべてのことに時がある」
・
・
今は、月に1回日曜礼拝に行く程度だから、昔の私のようなクリスチャンから見れば、いい加減と言われるだろう。
それに、かつて信仰しか見えなかった時代には、罪悪感が伴った【楽しいこと】を心から楽しんでる。
でも、神様はどの時代の、どの私も赦し、愛して下さるという確信があるから、全然OKなのだ。
後ろを振り返ると、本当に不思議だと思う。
物心ついた時から「サムエルの祈り」の絵を見ていたこと。
幼稚園で毎日マリア様の祈りをしていたこと。
初めて見た映画が「マルセリーノ」だったこと。
子供の時見た「靴屋のマルチン」や「スクルージ」を、後年日曜学校を担当して人形劇や影絵で再現したこと。
英会話のクラスの時に結構大きな地震があって、神父さんがキリストの像を指して「守って下さいます」と言ったこと。
学生時代、英語だったけど聖書の学びをしたこと。
まるで、バラバラになっていた真珠が、1本の糸で首飾りになるように、
私のバラバラの過去の出来事のひとつひとつが結ばれて、今があるのだ。何一つ無駄なことはなかったのだ。
心から、そう思える。
最後に、ムスコのこと。
彼が小学生の時から一緒に教会に通って、中学生の時自分の意思で洗礼を受けた。
子供の時は私の食前の祈りに「長い!」と散々もんくを言ってたけれど、今は、黙祷だが、彼の祈りの方が長い。
信仰の継承がなされた今、私は明日死んでもかまわない。
↑
と豪語してみたものの...
もう少し生きて楽しいことしたいというのが、本音😜
やっぱりなまくらクリスチャンなのです😅
長々と書きました。
読んでくださった方に、もう一度、心の深いところからお礼を申しあげます。
ありがとうございました。
このブログへのコメントは muragonにログインするか、
SNSアカウントを使用してください。