11/1 婦人会通信の原稿 再び
あ〜あ、今年もカレンダーが残すところ2枚になってしまった😅
夕ごはん
ゴマ豆乳鍋
りんご
切り干し大根煮
昆布と大豆の煮物
だし巻き卵
↑
どちらかというとお弁当用
昼ごはん
にゅうめん
柿
・
・
・
今日のきもの
無地の結城紬
縮緬の名古屋帯 紅葉の柄
今日は日曜礼拝へ
婦人会通信の原稿を催促されたので午後から豆を煮ながら書いてみた
・
・
・
前回の「愛の不時着」はこじつけっぽくて自分で却下
別なものを
〜・〜・〜・〜
あなたがたは、わずかの間現れてやがて消えゆく霧にすぎません
ヤコブ4:14b
若い頃は虚しく思えたこの節に、還暦を過ぎた今は心惹かれる。大きな慰めを感じるから。
ひとさまから見たらきっと、とんでもなくいい加減な人生を送っているように見えるはずの私。
確かに考えるより先に行動してしまう質だから、自分も大変な目にあったし、ひとさまを困らせたり傷つけたりもしてきた。少なくとも自覚はある。
そんな私を赦して愛して下さる神様の寛大さは、私自身が一番よく知っている。「恵みは罪の多いところに増し加わる」これも慰めだ。
だけど言わせてもらえば、いつも全力投球、全力疾走だった。
ただし、パウロの言う「賞を得るために走り続ける」のとは方向的に違う気もするが。
そして最近は、その【全力】がかなわなくなっている。すぐに疲れるし、物忘れもひどいし、言ってることもやってることもとんちんかん。自分に舌打ちしながら生きている。
そんな時に「やがて消えゆく霧」という言葉を思い出すと何だか肩の力が抜ける。そうなのだ、私は何者でもなく「霧」なのだ。頑張らなくていいんだ。
何かをしたから神様が愛して下さるのでなく、ただ突っ立っていても神様の愛は減らないのだ。そんな風に思える。
今までは、自分の好きな所へ行けたけれど、この先は「腰に縄をつけて牽いていかれる」人生が待っている。
でも、今はおぼろげにしか分からない事がはっきり見えるようになり、主と同じ姿に変えられていく希望があるのだ。
ノアも、アブラハムとサラも、ゼカリヤとエリザベツも、皆老人だ。高齢者にだって希望があるのだ。
「霧」に過ぎない私は、その謙虚さを忘れずに、ゆるゆるとできることをやって、感謝して、御心でしたら78才まで生きて(なぜかそう思っている)、身体が動かなくなったら賛美して、声が出なくなったら空を見上げて、御国を待ち望む、そんな人生の終わりを夢見ている。
〜・〜・〜・〜
私は根っからふざけた人間のようで、真面目に書けないみたい😓
ついでに、
昨日のお庭巡りが今朝の新潟日報に載っていて、友達がラインで知らせてくれた
マスクしていてよかったです😅
このブログへのコメントは muragonにログインするか、
SNSアカウントを使用してください。